「フロム・いわき ギャラリー&カフェ ブラウロート」
アリス・イン・ワンダーランド
ティムバートンは、プロップによる物語31の機能をものすごい活劇速度でかけぬける。どうもこの速度は、社運をかけているようだ笑。さあ、この状況を打開出来るのは速度しかない。もう割り切るしかないのだ。当然「ものがたり」は、宙に浮いたまま一網打尽となって行く。
真夜中の庭―物語にひそむ建築 植田 実
建築という視点から児童文学を読み解く。構造的なその取り組みは、冷静に児童文学の枠をとらえようとするが、読む内に児童文学だけの枠にとどまらない内面性(体験)が露呈する。特に幼い頃に読んだ読書体験は、作者自身がたどり着くべき建築的場所=空間へと誘う。
アンネフランクの日記について書いた「ある隠れがの記録」の最後のくだり
「夢見る少女でありながら、あまりにも冷徹なリアリズムの記述。日記空間を奪う外部から、ゲシュタポが隠れ家のドアを叩く。リアリズムをすら超えてしまうものが、彼女を連れ去った。」
とある。
はたして創造を超えたものとはどこまで許されるのか。 あまりにも悲痛で重い。それが今ある現実の中で、歴史として繰り返されないことを祈るばかりである。
ファンタジーや視覚的なるもの。
現実は厳しいとひとはよく云うが 、はたしてどちらが、厳しいのであろうか。
フレデリック・ワイズマン「ボクシング・ジム」
構図もスタイリッシュな訳ではないし、説明的なナレーションがあるわけでもない、どちらかというとただ撮っているだけのように見える画面を観て、ドキュメントをまじめに観てしまう人にはあっさりと終わってしまうのかもしれない。
ボクシングジムという現場でどういう練習をしていて、何の為にボクシングをしているのかは、もちろん見えてくる。パンチングボールの打ち方やマウスピースの付け方など、あまり見せないようなところも随所に出てくる。中でもおもしろいのが、野外に出てタイヤをハンマーで打ち続けるという練習風景が、説明ができないくらい気持ちよかったりする笑。
ここまでは、まじめにドキュメントという枠で観ることだと思うが、眠い目をこすってよく見てみると、そういう枠には収まらない部分も見えてくる。
特にスタジアムでのランニング風景とフットワークを使った練習は妙におもしろい。
ランニング風景では(ここだけでは、ありませんが)ひとつのカットの時間、カット時間と呼べばいいのでしょうか、が、ものすごく早い。早いことは誰でもできるのだけれど、それを感情の持続性の中で成り立たせ、かつ必然性に持って行くのは、なかなか出来ない。
そして短いカットだけでなく、より長いショットのカット時間も絶妙で、リング上でのフットワーク練習風景などは、もう呆気にとられてしまうくらい長く笑、とてもドキュメントの枠では、とらえきれない別の部分があるのではないかと思いました。
ワイズマンは、それらをフットワークのように巧みにコントロールしているのがとても憎らしいです笑。
フレデリック・ワイズマンのすべて
那智の火祭り 火遁鳳仙花
15歳の志願兵 ジュニア版
あまり思い入れを強くもって、この手の本を読むと「昔の戦争はね」とかいって、観念の固まりが、自分を襲いはしないかと気がきでない。ドラマやシナリオとしては優等生なのだと思う。(もともとドラマを小説にしたものだが、ほぼシナリオ)なんとか芸術賞とかなんとか放送大賞とかを取りそうな雰囲気。たぶんこういうのが、シナリオとしては、お褒めのことばをいただくのだろうと思う。
しかし、どうも自分は、劣等派なので笑、読んだあとに異和感を感じる。たぶん活劇性のなさ=空間の広がりのないものは、あまりひかれないたちだからだと思う。テレビだからしょうがないといってしまえば、それまで。
この志願兵が生きていれば現在82歳。現在90歳前後のひとたちが、当時23歳前後で戦争に行ったのだから、それは誰が聞いても複雑ですよ、やっぱり。韓国の俳優が兵役に行くだけで大騒ぎするわけだし(チョット話しが違うか笑)。
自分の実家には、現在90歳近くの親父がいて、この前もちょっとした戦争小話。親父には悪いが、もうこういう話ができなくなるというのをひしひしと感じている。兵役や戦争を経験して”そんな体験してたの”というのがポンポン出て来る笑。たぶん今だから話せるというのがあるのだと思う。他の家族にも敬老のかたがいて、たくさん話たいことがあるのではないかと思った。この際、敬老の日が近いということもあってみんなで話を聞いてあげるというのもいいかも笑。(中には嫌がる人もいるので笑、自分は責任とりません笑)
石巻赤十字病院、気仙沼市立病院、東北大学病院が救った命
こういうのがあって読みました。ということで、読後の感想は、控えさしていただきます。